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「アーロン収容所」を読んで適材適所とか自己責任論について考えた

「アーロン収容所」を読みました。

著者の会田雄次氏は,ビルマ戦線で終戦を迎え,イギリス軍の捕虜となっており,その時の収容所暮らしの様子をまとめたものがこの本です。

イギリス人に対する憎しみに圧倒される

普通に交流するだけではなかなか表には出てこないであろうイギリス人のアジアに対する差別意識など醜い部分が,露骨に出てきており興味深いです。

本書を読むと

  • 表立った残酷な行為はしないが陰険なやり方で攻めてくる
  • インド人なども含めてアジア人を人間として扱ってない

ということが特に強調されて書かれています。

著者はインテリ層で,西洋社会や文化に理解がある人なのでしょうが,しかしそんな著者をして

イギリス人を全部この地上から消してしまったら,世界中がどんなにすっきりするだろう。

と言わしめるほどです。

冷静な文章の中に時折イギリス人に対する激しい憎しみが垣間見られて,圧倒されるというかやや引き気味にすらなるほどです。
本を読んだだけではちょっと実感がわきにくいのですが,今でもイギリス人の根底にはある程度こういった意識があるのかもしれないと思いました。

人々の差別意識が根底から払拭されるには相当な年月が必要でしょうから。

適材適所は時と場所次第なところもある

しかし私がこの本で最も感銘を受けたのはそこではなく,適材適所ということについてであります。

この本に出てくる人は戦争を生き延びた人たちです。
そんな彼らも終戦を境に立場や役割などが一変します。
それはもちろん敗戦によって旧軍の階級がそれほど意味を持たなくなるせいでもあるのですが,それだけではありません。

戦争中に活躍していた人が戦後は昼行灯のように目立たなくなる例がいくつかあったようです。
逆に戦争中は平凡だった人が,泥棒能力や弁舌能力に秀でているために収容所で実力者的地位を築くことも起こったそうです。(収容所では配給があまりにひどく,泥棒をしないとまともに生活できなかったとか)

そう考えてみると,人に適した場所とか天職などというのはどこにあるのかわからないものです。
戦争などの極限状態じゃないと活躍できない人は確かに一定数いるのでしょう。

戦争で活躍する人は平和な社会では粗暴犯,厄介者の傾向がある,というのを以前どこかで読んだことがあります。
確かに粗暴犯によくいるアドレナリンが噴出しやすい性質は戦場にもってこいなのかもしれないです。

またこんな本もありますから,本当に人の適材適所というのは時々刻々と変化していっているのだと感じます。

収容所で泥棒の才覚を活かして活躍した人も,日本へ帰ればそんな才能活かせませんしね。

そう考えてみれば,いくら才能があろうが努力しようが,時や場所に恵まれなければ発揮できないことはいくらでもあるわけで,昨今よく聞く自己責任論というのはそう易々と口に出来ることではないですよね。

歴史というのは,人とその能力と時間と場所とが見事に一致した際に発揮される希有な事例の積み重ねなんだなあと感じました。

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