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変死を通じて感じた人の死

その他

警察の仕事の一つの特徴に,人の死に接する機会が多いというところがあります。
特に刑事部門,さらにその中でも初動捜査とか鑑識とかをやっていると,変死事案を主に扱うようになるため,警察官の中でもより多く接することになります。

私は初捜とか鑑識が比較的長かったため,変死の扱いは多い方だったと思います。
数えてはいないのでよく分かりませんが,500体まではいかないですがそれに近い数は扱っていると思います。

参考記事

今でも鮮明に覚えている事案

警察官になって初めて扱った変死体のことは今でも良く覚えています。
今になって振り返れば,普通の病死で死体も新鮮で不審点もない,日常的に良くあるものだったのですが,それまで死体なんて触ったことすらありませんでしたから,指令を受けて「とうとうキター」とかなり緊張しながら現場に行って,ドキドキしながら死体に触りました。
あの時の死体の冷たい感覚は今でも鮮明に覚えています。

しかしいったん慣れてしまうと日常になってしまうのか,それ以降の個々の事案はそれほど覚えていません。
鮮明に覚えているのは,初めての首つり,初めての轢死,初めての他殺など初めて遭遇したパターンくらいでしょうか。

死を身近に感じる

そうやって変死の扱いが日常になってしまうと,死が身近に感じられるようになりました。
生きるのも死ぬのも表裏一体でいつ人が死ぬのかなんて分からないなと。

特に元気な人や若い人なんかが急死した事案などに当たると余計にそう思います。
また,変死現場にはその人の人生が凝縮されていると感じることがしばしばあります。

例えば発見に至った経緯からしてもそうです。
家族や友人に恵まれた人は,たとえ独居でも発見が早いです。
本当に悲しんでいる人がいて,死んじゃったけど死者は幸せな人だなと思っていました。

逆にそういうのに恵まれていないと発見が遅れて腐乱など痛んだ状態で見つかるばかりか,引き取り手もいないことがしばしばです。
誰も引き取り手がいなければ,最終的には市が引き取るのですが,やはり少し寂しく感じます。
心から悲しんでいる人は誰もいないということですから。

一方でそういった人でも金を遺して死ぬと,ほぼ誰かが引き取りに来てくれていました。
地獄の沙汰も金次第ってこういうことを言うのかなと思うと同時に,生きている人間の浅ましさを目の当たりにして,生きてる人間の方が地獄かもなどと考えて嫌な気分になっていました。

諸行無常

また,変死事案では事件性の有無を確認する必要があるので,死者の部屋なんかは割と丁寧に調べます。
物色されていないかとか,貴重品はちゃんとあるかとか,病歴とか服薬状況とか。
そうすると,死者の思い出の品などもいろいろと出てきて,死者の経歴,歴史がある程度浮かび上がってきます。

そういうのを見ていると,諸行無常という言葉が心に染み,自分も「今」を大切にしないといけないと思っていました。
しかし喉元過ぎればなんとやらで,署に帰って一件書類作ったらすぐ忘れてしまうのが凡人たる所以なのでしょうね。

まとめ

以前の記事でも書きましたが,「死」って今でも身近なものだと思うんですよね。
見ないようにしているだけで。

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いくら元気でも,外歩いてたら車にはねられるかもしれないし,変な人に刺されるかもしれないし,夜寝たらそのまま死んじゃうかもしれないです。
可能性は小さいですが,起こっても不思議じゃないです。

また今すぐにではなくても,いつかは絶対死にます。
そういった意味で,私にとって変死事案の扱いというのは,「死」というものについて考えることができたよい経験だったと思います。

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